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会津三十三観音 六番札所
松島山
【喜多方市】
質素でありながら威厳があり何より慎ましやかな里寺
会津の里寺を紹介するきっかけとなったのは「勝常寺の薬師如来」だったが、その他のお寺を選んでいる途中に出会って一目惚れしたのがこの「勝福寺」(しょうふくじ)だった。
2006年の晩秋、喜多方は冬の気配の曇り空で覆われていた。当時グーグルマップが無かったので住所を頼りに向かったが、無住職の小さなお寺を知っているのは地域の人だけで会いたいのになかなかたどり着けずに長い間うろうろしてしまった。
茅葺きのこじんまりとした観音堂を見たときには、これこそイメージする「会津の里寺」だと感激した。質素でありながら威厳があり何より慎ましやかなのだ。その時は「和様」とか「唐様」などの違いはわからなかったが寺の知識が増えていくと「和様」が好みとわかってきた。
国道121号線から県道337号を東へ向かい500mほど進むと左側にあるのだがお寺らしい建物が見えないので、油断すると通り過ぎてしまう。八脚門の仁王様にあいさつをしてから人気の無い伽藍に入ると、気品あるお堂がだけが凜として南に顔を向けている。現在の建物は、国重文に指定された昭和59年から全面修理工事に入り、建物をいったん解体して史料にもとづいて当初のかたちに復元したものだ。このあたりは「上勝」(かみすぐれ)と呼ばれた地域で、勝福寺は「勝の観音様」として地域のより所として道向かいにある「宗像神社」(こちらもこぢんまり)とともにことあるごとに人が集まっていたのだろう。
由来が書かれたボードによると・・・平安の昔、京に住む女性「勝御前」(すぐれごぜん)が松島へ行く途中、この村に立ち寄るが病気になっていまい旅を続けられなくなってしまった。村人たちは女性のために松島の景勝を一夜にして築造し、勝御前に見せたところ御前は安心して息をひきとった。後にその冥福を祈って観音堂を建立したとのこと。それからこのあたりは勝村と呼ばれるようになったそうだ。
寺を撮影中誰も見かけず近くに人家があるのに、人の気配がしいない伽藍を後にする。遠くに夏を感じる曇り空の喜多方だった。
[] 内容の一部は歴史春秋社:会津の寺を参照しています
勝福寺は、天文年間に火災に遭いその後永禄元年に領主「葦名盛興」が再建した建物であることが文化財調査の時にわかっています。
昭和43年に県の重要文化財に指定され、昭和57年には国の重要文化財に指定されました。建物構造は、桁行四間、梁間三間、寄せ棟造り、妻入り、茅葺きの仕様で会津では珍しい和様を基調にした建物です。
堂内には鎌倉中期の作である、不動明王立像と毘沙門天立像が納められていいます。
鐘楼の鐘は永禄七年銘の銅鐘が残されており、これは法用寺の銅鐘についで古いものです。
[] ※参考書籍:歴史春秋社刊「会津の寺」
勝福寺